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カウンセリング2011 Mバージョン3.0 [├ カウンセリングのこと。]



ほんの数日前のことですが、

やっぱり古い昔みたいです。

この日は、こんなことを話しました。





両親のことを話した。

母が、手術をすることになり、

父が一緒に付き添ってくれと言った。

調子が悪いので断った。



今度は、父が相談があると言ってきた。

父は、気が小さいので

母のことでこたえているようだが

父は、弱っているふりをすることがあるので

そこのところをよく見ないといけないと思った。

父は、DV男なので急にキレるところもあるし

少し距離を置きたい。



私が、幼いころの話をした。

1番古い記憶を聞かれた。

赤ちゃんの頃の記憶があり

両親に聞いたらその通りだった。

2~3歳の頃の記憶も

幼稚園の頃の記憶もたくさん覚えている。

親からあまりそう言う話は聞いたことがないが

確かめてみるとその通りと言うことがほとんど。

自分の子供に聞いてみても

あまり幼いころの記憶はないらしい。



そんな中で思ったのは、

直情的で理屈では動かない母と

理屈で動きたがる私との

意思疎通のなさだった。

母は、多分私のことは考えてなかったと思う。

自分がこうしたいから

私を思うようにしたがっていたと思う。

だから、ほとんど私のことはわかってなかった。

母は、本当に突然の人なので

突然、映画に連れて行ってくれたりしたが

私の好みとかはお構いなしで

着いてみてから映画を見に来たことを知ったり

内容もわからないまま映画を見たら

原爆を扱ったものだったが

小2の私は、原爆自体を知らず

一体、何が起こったのか理解不能だった。



幼稚園から学校と言うものが嫌いだった。

幼稚園も年中から行ったが

本当に嫌いだった。

年中の頃は、先生が好きだったが

幼稚園自体が嫌いで

でも、毎日バスが迎えに来て

仕方がなく乗っていた感じだった。

逆らわない受動型の要素が満載だったと思う。

団体で動くことが本当に嫌だった。

それでも逆らわないで従う一方だった。

年長になると先生に目の敵にされた。

私が何かを失敗すると

教室から締め出しを食らうこともままあった。

とにかく1人で遊べることが好きだった。

教室では、絵を描いたり粘土で遊んだり

園庭では、鉄棒やすべり台ばかりしていた。



小学校は、もっと苦手だった。

つか、小学校って単位を理解したのは

確か小2の頃だった思う。

それまでは、何で行くのか理解していなかった。

とりあえず近所の子が迎えに来るので

それについて行っているだけだった。

もちろん団体行動は苦手で

式とか集会とか嫌だった。

それでも文句とかは言わなかった。

ひたすら従うのみ。

小1~2の先生にも目の敵にされた。

それに対しての母のフォローはなし。

むしろ、私の恥ずかしい癖とかを

担任に伝えたりしていた。



音楽とか体育とか教室の移動が苦手だった。

変化のあることが苦手だった。

教室なら教室にずっといたかった。

放課の時間に外に出るのも嫌だった。

ものすごく憂鬱だったが、

やはり文句を言わずに従っていた。

完璧な受動型だった。



赤ちゃんの頃の話なのだが、

私は、人見知りも全くなく

誰に抱かれてもなかなかったそうだ。

両親を目で追いかけなかったらしい。

私の記憶でも1人遊びしているものが多い。

その通り大人しいので

ほったらかしにしていたらしい。



こんなに色々なことが顕著なのに

当時の概念には、発達障害と言うものがなく

困ったちゃん扱いだった。



幼稚園では、団体行動が苦手で

言いたいことも言えず

いじめられっ子だった。

不注意もあり、どんくさい子だった。

小学校では、忘れ物の女王に君臨していた。

机の中の整頓ができなかった。

もちろん団体行動が苦手。

そして、違わずいじめられっ子だった。



なので、小5の時から登校拒否をしていたが

それは、私にとってベストな選択だったと思う。

小5になって、やっと自己主張ができたんだと思う。



何かの本で読んだが

11歳くらいの時に子供は変化し

この頃に行動や考えが変化したり

いじめとかがひどくなったりするそうだ。

難しい時期らしい。

確かに、自分の現状を少し把握したのは、

この頃だったと思う。

確かに当たっている。



M先生の意見としても

幼いころの私は、

自分の置かれている現状を

把握できない状態だったのではないか?

と言うものだった。

当たっていると思う。

そして、母は、私の気持ちを

理解しようとは思っていなかったと。

確かにそうだと思う。

つか、母は、目の前のことに必死で

私たち子供を気にかける余裕がなかったのかも。

それと、母は、相手の気持ちにお構いなしなのを

自分では、理解していないように思う。

まずは、自分である。

父の放蕩三昧を許していたのも

殴られるのが嫌だったからだが

子供たちが父に暴力をふるわれるもの

ずっと見ているだけだった。

子供たちのことを気にかけているようで

実は、自分の手柄ばかりを考えていて

自分は、子供たちにこうしているアピールを

よく他人に話したりしていた。

もちろん、私たちの変な癖とか

あまり人に知られたくないことも

お構いなしで話していた。

こちらの気持ちは二の次であった。

私たちを置いて、不倫相手と駆け落ちしても

それは、父が悪いってことで

謝る気持ちは今でもないらしい。

口では、謝ったりするが

心からをそれを言っているとは思えない。

すぐに言い訳をしたがる。



ちなみに、私は小3の頃に

少し活発になったのだが

その時期と母の蒸発の時期が重なっている。

母がいない方が幸せだった気がする。





こんなことを話したり

その話の中から思い出したことを書きました。



前々から言っていますが

親を選んで生まれられないことは承知していますが、

まったく系統の違う親の下に

生まれてしまったと思います。

考え方も思考回路のパターンも

まったく相いれない人たちだと思います。



昔、臨床心理士のT先生に

『親とは縁がなかった』

と、言われましたが

それは当たっていると思いました。

家にいて楽しかったことはないし

両親との楽しい思い出は全くありません。

昔の写真で、私が笑っているものは皆無です。



M先生には、うちの両親が

私の反面教師になっていると言われました。

両親の存在事由があるとすれば

私の反面教師となったことだと。

そうですね、その通りだと思います。



2011年 3月 1日 12:00~13:00



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